仕事上がりの午後１０時
本厚木駅前
どこのブランドかはしらないが
そのがたいの良さをしっかり際立たせる
ダークブルーのスーツを着こなした
ある男に声をかけられる
決して知らない男ではない
つい先日まで
同じ会社の同期として働いていた戦友
そう
つい先日までは
その戦友はもう
同じ会社の同期ではなく
別の会社の営業マン
その男が生業とする商材は
生命保険
学生時代一緒に酒を交わし
同じ会社の同期として夢を語り合い
志を共にした男が
何の因果か
今
私に
生命保険の販売を試みようとしている。
久しぶりの再会にまず握手を交わしたが
その堅い握手から
男の今日の商談への
意気込みを察することができた。
酒を交わす提案を投げかけたが
あっさりと断られる
男が指定した場所
駅から若干離れた
国道２４６号線沿いの
ファミリーレストラン
♪あったカフェ〜レストラン「ガスト」
奥華子のポップな歌声とは裏腹に
この時間にいる
ファミリー達は皆
どこか訳ありで
あったかさを微塵も感じさせない様相
なぜやっぱり
あのちっちゃい僕の襟足は
あんな不自然に伸ばされているのか
周りの喧騒は避けたいからと
この場所を指定
この男
真剣（マジ）である
人里離れたこの夜中のファミレスに
私を軟禁し
この男は一体何を
目論んでいるのか
何も臆することはない
保険の販売であるはずだ
もしかして
男はシンガーソングライターに転身し
手始めに１ｓｔシングル「そう激務の果てに」
まずは１０枚、自主製作のＣＤを買えという話か
はたまた
いきなり大きく口が裂け
ココロのスキマをお埋めしますと書かれた名刺を出し
人差し指を突き出して、私の中に潜む業をあぶりだそうということか
思考を巡らせていると
ふと私の背後に忍び寄るもう一つの
黒い影
厚木に訪れた刺客は一人ではなかった
その男の横にはもう一人屈強な男の姿
名刺の肩書には「営業所長」という文字
一見日本人なのかと
疑いをぬぐいきれない欧州人顔
川平慈英を彷彿とさせる端正なマスク
穏やかそうなその表情
しかし
その瞳の奥には
何十人という子羊達から
三文判を奪い取り
その場で契りを交わさせた
射程圏内の獲物を確実に落とす
まさに
獣
の鋭さが宿っていた
どうやら元同期の教育係として
わざわざこの県西の果てまで訪れたらしい
厚木のいち小市民で
子羊なかよわい私の
利き手ではないという理由だけで
トイレに行っても
絶対に洗うことを試みない
左手は
その男の登場から
徐々に震え始めた。
食われる…
そして
息もつかぬ間に
元同期の男は私に
保険の仕組みを
スラスラと図示をし説明をまくしたててくる
さすが
以前の会社では営業として
成果を上げてきた男
その説明手法は
この真夜中で
ショート寸前の私の思考回路にも
潤滑油のように入り込んでくる明快さ
ものの2時間はたったろうか
時計の針は既に翌日の日時を表していた
その間私は
一杯の
コーヒーも
飲めなかった
ドリンクバーである
なぜバーにしてしまったのか
こんな
屈辱
初めてだ
真夏の練習中
その乾ききった喉を
潤したくても潤せない
闘将、馬渕監督率いる
明徳義塾高校野球部員が
私の
この愚行を見たら
その手に持った金属バットで
喉を一突きしてくるに違いない
たった一杯のコーヒーで
保険概論終了
保険の基本的な知識は
確かに脳裏に焼き付けることができた
もはや食欲すらないほどに
今日食べるはずだった
大好きな豆大福も
全く食べる気が起きない
皆さま
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